大垣 三塚 宝光寺  
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〒503-0808 大垣市三塚町1081

日本的佛教寺院 ウィルダネステンプル

そのままよ月もたのまじ伊吹山 芭蕉大垣にて

芭蕉の俳句集に「荒野・廣野・阿羅野」と名付くものがあります。

この「あらの・あれの」は、ウィルダネス〈原生自然・万物がありのままの生態系〉です。

また、旅にやんで夢は枯野をかけめぐる(辞世句とされる)には「枯野」を詠んでいます。 

こしらえものの環境(=社会・組織)によって枯れてしまう聖命力を求め、その万物界(ウィルダネス・神聖なる領域)に駆り立てられての旅「奥の細道」だったのでしょう。

夢の枯野 駆り立てられる荒野 深い情感の訪れを感じます。

三百年近く時代が下ったいま、なおさらそれを求めなければ、正気を失わずには生きられない時代社会です。

   〈↑の写真は、細道を結んだ大垣からは伊吹山の向こう
                  ウィルダネスの世界です 〉

      お寺や神社の門や鳥居は、入り口ではなく出口です!

これが、コツ。
イキイキ社会を生きるには、
社会〈世間〉の外〈出世間〉へ出掛け(往)て還る 
社会化に閉じない営みを持つ。
本来、宗教はそのために生まれた。

お釈迦さまは、『往相還相』彼岸(かのきし)の覚りの果実を味わい、
そして我々の此岸(このきし)へお還りになった。
このブッダの行動を『如来』タターガタと呼び、

そうして、個別にセルフ往還の方法を教授する『方便』ウパーヤ〈原語:如来が我々に接近〉を為された。

なんじゃコリャ

お寺の庭園は、枯山水などにして、お浄土の世界観が観えるよう施されています。うちのお寺もそういった意味では同じ、でも、限りなく人の美観によらずの庭です。「人目線の良し悪し?、それは人間の傲慢でしょ」、その感覚をそのままに人をもさばき排除する社会が生まれている「キャンセルカルチャー」社会、大勢苦しんでる。
そんな、社会の外へ出て、聖なる力を施せる、寺本来の役目を果たしたい。なんじゃコリャ=なんか意味がある への転換が救いになります。

この、話題の方に関心を抱く方は、ぜひ。


安心感ありますか?   
安心はどれだけお金を積んでも得られません
むしろ、お金があればあるほど安心感を失う
佛道は究極の安心感を得る
そのツボを心得たのがお釈迦さまでした



お釈迦さまは、身を養う食のほかに、心やたましいの食物について明らかにされています。
そんな、心の栄養のお話をYouTubeに綴っています。
↓クリック

ここのお寺はもともと

まだ、5.60年前までそれ以前は、ここのお寺の一体、特に北側の大木の周りはうっそうとしていて、なんかこわい感じがして、実際に草木を刈ったり切ったりすると、なんか変なことがおきる。それを先代がご祈祷したりお経をあげて縮小して玉垣を囲ってその中だけに収めました。昭和の高度成長期、どんどん人の美観を頼りに人の手で人工化し整備出来ていることを良識とする時代でした。
今となってはどうでしょう?
登校拒否(いきたくない)から不登校(行きたいけどいけない)へ、そしてひきこもり。いろんな恐怖症。あげく「筑波病」が明らかになった。法社会・記述言語・損得勘定に縛られる中で奪われる生命力。

いわば、本来、お寺が贈与(提供)していた聖なる力・生命力・ワクワク力が湧いてくるではなく、江戸期に官僚化した(今でいうお役所仕事請負のとき味わったままの癖が抜けない)ままできてしまっている。

これが、なんとかならないかなあ?、というところに気が済まない私です。宮﨑駿さんがトトロにこめた神さまご先祖さますがた、昨年の最新作の世界観。どこか共感します。

だからといって、現状に抗おうというのではないのですが(ある意味すでに不可抗力の域)、此の期に及んでもまだ、そういう場所がどんどん失われていくというのは、なんとも悲しいなあと、自分で自分の心を潰しているようで、もどかしく思います。

なんといいますか、
人が社会を保つため、時代に乗り遅れないためなど、「見たいものだけを見て、見たくないものを見ない」ようにする(釈尊はじめのさとり)ことで、自分が保たれるという自我の働きのなか、外の世界を人工化した(人の美観で見ればスマートなのだけど)、そうしてつけた手垢のヨゴレ。手をかけず、そのままにして風化していった(人の美観で見ればキタナイ・キモチワルイ)風景との違いがわからなくなっている?、のではと一度は考えてみたい。
一旦、美観がそうなってしまうとなかなか戻せないのだとも思うのですが、なんとか、とりもどす小径を設けたい。でないと本当に心が潰れていってしまいますから。

いずれにせよ、人間性が二つに分かれて大きく二極化します。
一方は、いかなる状況になっていこうとも、いや、だからこそなおさら、自分で自分に誇りを持てる生き方を成し遂げたい。という人。
もう一方は、どうせ〇〇〇なら、すきほっかいにして、生きてやる。という人。
いずれにせよ、今なしていることに対する吟味、ずっとそうしてきたとはいえ、このままでいいのか?、に立ち止まる時です。
〈だいたいちがっているというのが良識〉

いずれにせよ、イキイキ活き抜くを、てほどきします。

ごあいさつ

当山にご関心いただく皆様へ
お釈迦様は、約2500年も前にすでに社会を生きる上の苦悩のワケを覚られました。
そして、生命力を与える業と奪う業を特定され、その人その人に合わせた生命力を得る方法をお教えになりました。
〈方便:ウパーヤの本来の意味〉
それが、仏典という膨大な教えとして残されている所以です。いわば、救いのカルテの山です。

これらはすべて、この「生命力を与えたましいの力をとり戻す方法」という目的に一貫したものです。
そのために、まずご自身が出家沙門となられました。決して国や妻子を捨てたのではありません。小国の王となる者としての国丸ごとの生存戦略を企てられた。(と、お釈迦さまのご意思は私に伝わってきます。)

なのに、
残念ながら日本佛教は江戸期にその釈迦佛教の力を失ってしまいました。明治・大正・昭和も不可能でしたが、今ならば本来の佛教が取り戻せる時が来たと思います。

社会化:交換関係でしか関係を見出せない、閉じられた心理状態に適応埋没せず、それでいて応対し、交換関係以外の関係〈たとえば、言語化・概念化される以前、規定される以前、損得勘定化以前の世界を共有出来る関係〉を知っていて、実行する。それが社会でイキヌク(生き抜く・息抜く)唯一方法です。社会を生きるには社会を生きない時間が必須です。


釋潮叡 当山十五代当代山主
昭和44年2月のはじめ当山に生れ、父による僧風修行のなかで育つ。
15歳でお山へ修行に上がり、身延山九十世日勇法主に侍し、横浜妙香寺宇都宮恵行御前に仕え、身延山大学学長宮川了篤先生の食客書生となる。
大いに佛道に疑問を抱き、方々見聞。
横浜片倉長遠寺津島正義(自称義兄)との、ボルネオ島沖の小島での名状しがたい万物からの圧倒的贈与体験をし、世界の見え方が反転する。差取りという意味でのさとりに開かれた。
以来、その遣師となるべく、竹内日祥・竹内敏晴・鳥山敏子・レオニードアニシモフ・村山幸徳に師事遍歴する。
法華修験「遠寿院荒行堂」満行。
ようやく、宗教の役割、佛教の人類的文脈を掴み、これからの社会において明らかに欠けたるものを補うすべに至り、老若男女童男童女のイキイキを守る、佛道本来の役目を果たすべく、寺観一新に取り組んでいる。



岐阜刑務所教誨師
Nたま(NGOスタッフ研修)18期生
天然自然ってこんなに大事 イキヌクヒント
万物の聖命力の人工的再現への挑戦!
実際には、音域に対応する再生機器が必要ですが、 
自然がこう聞こえている その模倣

たましいの力:生命力

社会を生きるために

この写真はシパダン島というボルネオ島沖にある小さな島です。青い空と海と多種多様な生物たちがいる。地球とはこんな美しいところを生み出すものなのか。そう感動したのを覚えています。
あれはまさに「たましいの力」を与えられた体験でした。
人間社会には残念なことに「たましいの力」を失う作用があります。だから、自主的に取り戻す営みが必要です。
佛教は本来そのために生まれたものでした。しかし、江戸期においてその力を喪失します。そして、そのまま現在に至ります。
土草木動万物多様性天然自然の力によるものでした。

この動画を観て、元気が出る?出ない? 自己診断してみましょう。
出た方はぜひ、お便り下さい。

究極の安心とは

佛道修行は、これに気づいて、それに注目して、
歩み続けることによって、究極の安心、
逆に大切なものを失わない境地を獲得できる。

ということが、明確に示されています。
それを日常において実践すること以外に、
本当の仏道はありません。他はすべておまけです。


ぜひ、学んでください。
学びたい方、ぜひ一報を。

当山のいわれ・この町のいわれ
を仏典にみる

当山、大垣市三塚町宝光寺というお寺のこと、
この町のことを、
仏典にひもといてみてみたいと思います。

お釈迦さまの最後の旅路が説かれている「涅槃経」
の中に、
(涅槃経は初期経典としての涅槃経と、
大乗経典としての涅槃経の二つあります。
ここでいうのは初期経典の涅槃経です。)

マカダ国の阿闍世王が隣国を攻めたいが釈尊のお考えを聞きたいと諮問する場面が出てまいります。
ここで、釈尊は「専制国家(独裁政治)」と「民主国家(合議政治)」とを引き合いに出してお答えになります。これは諸宗教対話や戦争(政治)と宗教を考える貴重なテキストになりますので、いずれしっかりと研究をして明らかにしたいと思いますが、結論のみ先立てば、教誡によってこの隣国への侵略を踏みとどまらせる抑止力を発揮します。

その回答を出す上で釈尊は、「集団が衰退しない条件」として7つ挙げておられ、それを一つ一つの条件をその隣国は満たしているかどうかを弟子に確認します。じつはその条件をその隣国に指導したのはお釈迦さまご自身だったのです。そしてその指導通りに今もなお守っているということを確認されることで、阿闍世王の諮問に答えるという正しい姿勢を取られました。
その条件の一つにこの町・この寺のえにしをみました。


その国は、内外の霊域を敬礼し、尊重し、尊崇し、供養し、それらの霊域に対して与えられ、かつてなされた供物を廃止することがないうちは、繁栄のみが期待され、衰滅することはないであろう。
とあります。

ここにある「霊域」とは
インド語で「チャイティヤ」です。

そして、チャイティヤは「宝塔」のことでもあります。
当時の「チャイティヤ(宝塔)」とは、
・死者を記念する「塚」
・塚の目印として植えられた樹木のある区域
・塚に植えられた樹木自体である「霊樹」
・その樹木に住まう守り神「樹神」
という様な意味で用いられていました。

この教説を読んだ時、私はまさに当山と三塚のことではないかと背筋が伸びる思いでした。
さらに、釈尊は先祖や祖先に対しての正しい供養を行うことを勧めておられ、その一族の繁栄と衰滅はこの霊域にどう向き合っているかを見ればわかると教え戒めていたことも改めて確認できました。

当山の北側にある犬坊塚とモッコク樹そして宝塔を祀る寺、その区域に育つ草木どれをとってもこの教えに示される処であると学びました。



tomoniiki tomonisakaeru
生命力を取り戻すためにある寺

自分らしく生きるために

自分らしく、もっともっと生きたい、それを叶えたい。
それを妨げているのは自分だった。
どんなに長い道を歩み続けても、
どんなに努力をしても、
この気づきに至らなければ
本当の自由は得られない。

お釈迦さまはこれをお覚りになりました。
これが仏教の入門であり
ゴールでもあります。

今より幸せになるために

今の現状に満足している人には、仏道は無縁です。
もっと良き人生を送りたい。
そう心から願う人のためにこそ仏道はあります。



いろわず・つくろわず

   実は、その何か手をかけよう
   つくろってよくしよう
   それが、苦のもと。
いろわずつくろわない、もとのままへと戻す、その方向へ。

ほとけみち

どちらへ向かっていますか?
元気になる、頑張る、今よりよく働けるようになる。
それをあなたのからだと心が望んでいますか?
いろわず・つくろわず・もとのままへもどっていく。
そのため為すわざがほとけみち。

からだとこころが求めつつ安心する道です。

大垣 三塚

七面山 宝光寺

救われる人に共通の特徴があります。

毎日の生活が楽しく思える、「幸せの予感」ある日々、そんな生活についてを考え続けています。

生活とはなんでしょう? それは「生活」という言葉の中に秘められています。

仏教はすべて衣食住という生活の基盤から離れることはありません。
同じように生活をしていても、それが生命力を失う生活ともなり、生命力を養う生活ともなります。

あなたにとって、最適な生活を見つけましょう。

佛教が尊ばれるべきわけ

正しく佛教を学び行う
学解と修行

「不都合な情報には目をつぶり、得られた情報を自分に都合よく解釈し、自己を正当化するという姿勢」
これは、佛教が中心において最も重要視する人間課題の言い当て、
佛道とはここに陥る自分や組織を戒めて
いかになおし(修)ながら、あゆむ(行)かを
目的としています。


佛教はいかなる教えも、いかなる諸仏諸菩薩諸天もすべては、
人の「自分に都合の悪いことは無かったことにし、
都合の良いことだけを自分として形成する」という
意識の形成をいかに抑止し、よく調った自分、
よく調った集団を維持するか、そのために存在し見守っているのです。


ここに、全ての正しさの原因があり、
また、ここにすべての苦悩の要因があることを覚られ、
これを中心に、あらゆる人・時・処に応じて解き尽くされたのが、
さまざまな経典法門あるわけなのです。










心のケア

心は血脈の質によって調う

心が血液やその流れの脈、血管の質によって調うなんて、にわかに信じ難い話ですよね。特に坊さんが言うと怪しさが増します。しかし、体験者は皆「そうだそうだ」と同意します。
思いのほか、心は身体の影響を受けています。
当山ではこれに基づいた心のケアを行なっております。
薬を飲んだり、難しい修行をしたりするのではありません。
ゆったりとしたセルフケアです。

名前はとても重要です

おおよそ、巷に出回る姓名鑑定は、逆に凶名を付けてしまう。
という事実をご存知でしょうか?

姓名は生命のうつわです。
こころとたましいはそれに従い、
人格の形を作り、人生を形成します。
整った器ならばよく整う。


それなりの姓名鑑定でもおおよそ、
その整い精度は50%。優先順序はチグハグ。

私が与えられた姓名鑑定の精度は90%、
人生の自由度が高くなる。
だからあえてこうしてお薦めしているのです。


ぜひ吉名を得てよく整い満たされた人生を。

名付け相談もお気軽に、

人事鑑定

組織において最も難しく、そしてとても大切な人事、
誰を採用し、誰にどんな役割を与え、どんな権限と業務規定を与えるのか、
組織はそれ次第、と言っても言い過ぎではないでしょう。
雇ってみなけりゃ分からない、履歴を見て、その人柄を見て決める。
それも危うい話です。
好業績を上げる組織やその管理者が必ず周りに配置している不思議な法則、人材を豊かにする法則を用いて、
そこをお手伝いいたします。

人生の成功は、よく自分を転じる事です
その方法は、4つの環境条件を整える事です。

ご相談ください。
人生はよく転じて、さいわいを得ることができます。

方向性が逆だといくらやっても、
真面目にやればやるほど逸(そ)れていきます。

神人調和

犬坊丸尊霊

工藤祐経の嫡子。約800年前しばらく当地に住み、大塚の神様に武運長久を祈り、それが叶いのちに伊東祐時となって活躍する。
日蓮聖人の一番弟子日昭聖人の叔父、妙一尼の弟。

七面大明神

元禄四年身延山よりご遷座された龍女の神様。鬼門を閉じて七宝を開く霊験で人々を救済する。
豊穣・子宝・七難即滅七福即生の神様。

産土 大塚大明神

大塚とは誰でしょう。当地を長くお守りくださってきた産土の神さま、多くの人がこのお寺に休息を求め、魂の潤いを明神から頂き、ほとりに湧く清水にその身を潤したことでしょう。

第十五代 潮叡

当山生まれ当山育ち。日本仏教では能力才能がなくても成仏できる、幸せになれると説いています。これを誰が聞いてもわかるお話にしてお届けしています。
人事百般、商業・売買・生活環境向上、なんでも相談お受けしております。

第十五代 潮叡

当山生まれ当山育ち。日本仏教では能力才能がなくても成仏できる、幸せになれると説いています。これを誰が聞いてもわかるお話にしてお届けしています。
人事百般、商業・売買・生活環境向上、なんでも相談お受けしております。

恩を忘れては仏法にあらず

当山は、織田信長の父君信秀公の時代、天文十年〜十六年のころ大垣城の北東の砦として創建されました。北の通りからお寺の横を通る道は美濃路であり、大垣城下へ入るはじめの要所でした。

不思議なことに当山から南西の中心線を引いていくと裏鬼門に宝光院があり、養老の滝をかすめ紫香楽宮を通って奈良平城京の中心を貫き、元薬師寺があった観音池に至ります。この鬼門線から先人は何を汲み取ったのでしょう。

遡って壬申の乱の頃、西濃地域は大海人皇子(天武天皇)の乳母や巫女を太安万侶の父太品治が養ったところとされます。その孫聖武天皇はついに大仏殿を日本に出現させました。

江戸期元禄四年、伝馬町實相寺住職充足院日東上人は身延山から七面大明神をご遷座し、城主戸田家の祈願所として当山を生まれ変わらせました。犬坊丸はさぞお喜びのことだったでしょう。

近代となって、天台座主の弟子覚圓上人は倶舎論の講師をつとめる学者でありながら、荒行を修し、運命学と仏法と神秘の力を合わせ人々の身の病、心の病、商いを治める先達を育て「人尊きがゆえにところ尊し」の精神で社会に尽くされました。

講座「ひじりみち」

儒教と仏教にある叡智と情報を自ずから活用して自ら活路を開いて幸せになる人、そして他人を幸せにする人、
いわば、これまでお坊さんがやってきた事を習って
自前でできるようになりたい人の講座です。
ひじりは「聖」です。誰よりもよく聴く力を持つ人。
人ばかりではなく天地自然の声を聴きます。

ご関心の方は、ぜひお問い合わせください。

ご相談にお乗りしております

日常生活における苦悩の解消、また、もっと生活を向上させたい、
そう願われる思いに寄り添い、
良い明日を築くご相談をお受けしております。
お仕事における優良化対策、売上向上、組織の充実なども。

どこからでもいつになっても、
その気にさえなれば必ずや人生はひらけます。

人生相談、生活向上、人事百般、お問い合わせください。

アクセス

開堂・閉堂 随時 自由参拝

御用の際は、必ず前もってお約束願います
突然のお越しはご遠慮ください

当山は、御朱印・ご首題は、信行の契りを結ばれた方にのみ、お授けする信条をもっております。どうかご容赦下さい。

ただし、あるご質問にお答え頂いたそのご回答次第ではお授け致します。事前に指定のメール↓へ、お問い合わせください。

宝光寺 503-0808 大垣市三塚町1081
大垣駅北口バス停 3番 ソフトピアジャパン行き
                        2番 岐阜羽島駅行き

乗車時間 約13分  

三塚町 もしくは イオンタウン大垣 下車 徒歩 5〜6分

ソフトピアジャパン行き 大垣駅時刻表  ←クリック

岐阜羽島駅行き 大垣駅時刻表  ←クリック

車でお越しの方 
名神高速道路 安八ETC出口より14分 大垣ICより15分 大垣西ICより13分

mail:taiw@ho-ko-ji.com

✳︎ご相談・ご質問など、ぜひお寄せください。

毎日が美味しくなる梅干しです

師であり父でありました

合掌。冬至の候、御礼とご挨拶、ご報告申し上げます。
宝光寺先代でありました、師父本壽院日敬上人は十一月二十七日遷化されました。改めまして深厚のご恩に今一度感謝申し上げます。

昨年の今頃は自由闊達であった毎日が、腎臓の弱りから足や腹部がむくみ、法体弱まり、すこし不自由になり、幾度か入退院を繰り返しながらも、むくみが取れれば元気ではありました。九月から十月にかけての入院の際に、主治医より透析の話があり、十年若ければ間違いなくお薦めするが、その大変さと効果とを考えても難しい。ご本人やご家族で決めてくださいとのこと。近代医療を自ら退め、もう病院はいいと申し、山内書斎で静かに過ごす日々となりました。夫婦の私たちと特に孫の大祐が加わってくれて、寺族一同そばで見守る毎日、人の死に様、僧侶の死に様を身を持って教示下さいました。現代社会は中々師匠や親のお給仕が出来ない時代、とても有り難く、お徳の一分を頂戴し、最期の薫陶を承りました。

十月末、御会式に炊いたお赤飯があることを知り、大好きでしたからお茶碗にいっぱい食べ、眠りに着きましたところ、水分補給とお手洗いへ行くのみの毎日が続き、一週間ほどして起きて参りまして、お粥を食べ、饅頭を食べ、色んな昔話、自分の思い、信仰理念を語り、また眠りに入りました。一週間ほどして再び起きて参りましたところへ、東京の田島伝師様からおこしが届き、あんなに硬いものを「うまいうまい」とバリバリといくつも食べ、とても満足そうで、お礼のお電話を掛けてお話ができたこと、とても嬉しそうでした。家族をひとりずつ呼んで話をしたり、二日ほどそれなりに元気で、床に横になっていても、そばに居れば子供の頃からの話、信仰の話、案ずるところの話を二時間三時間する。荒行をするために坊さんになったが、副伝師を勤め、身延山大学で学生に信念を語る事が出来たのは宮川先生のおかげ。小僧時代の母親代わりの庵主さんと親しくしていた庵主様の弟子の竹内上人、シュテフェンス法尼のこと。枕元正面に飾ってある絵画は、子供の頃よく釣りに出掛けた山あいの池のほとりによく似た風景で、いつも懐かしく眺めていたのです。牧場で生まれて子供ながらに両親の手伝いをした話、少年でありながら志願して海軍で訓練を受けた話、弟子入りして師匠に厳しく仕込まれ夜泣いていたら庵主様が来て自分の苦労話を語って励ましてくださった話、妻の幸子に苦労かけた話、このお寺へ来てお婆さんに厳しく仕込まれた話、自分が七面様のお給仕をするために先に幸子が入って待っていたという信仰的順序の話などなど、想いに任せて存分に語りました。そして、「これでも、一生懸命やってきた、どうだっただろうか?」と自分に問い、仏天に問い、弟子に問うたことは、最後まで誠実な信仰者である生き様でした。師父は自分に厳しくそれでいて人に押し付けずその人に合わせて待つ人でした。

最後に食べたのは娘から贈られた大好きなイクラと松前漬けの数の子でした。ほんの少しでしたがとても満足そうでした。

二十四日には孫娘が旦那さんと一緒にひ孫娘を連れて来てくれて、どんなに嬉しかったことでしょう。その夕方に大祐に手を引かれてお手洗いへ行こうとしましたが、たどり着けず引き返しました。翌日の朝は何とかして行けましたがそれが自力で歩く最後でした。その夜、七時半頃から潮叡がそばに居りますと、目を覚まして見つけ、手を握り、爛々とした目で見つめ、時折うなずき、時折手を引き寄せて自分の胸にトントンとし、時折眠りながらも、また爛々とした眼差しでうなずき、手を引き寄せ、繰り返すこと三時間を超えました。最後は自分の両の手を握りその中へ私の手を握り込み寝みました。深夜二時頃、水を所望されましたので、境内の湧き水を汲んで参り、ストローで飲もうとしましたがもう吸う力なく、お匙で「ああうまい」「ああうまい」とひと口一口美味しそうに飲みました。翌二十六日の朝、潮叡と大祐がそばに居りますと、目を覚まして二人を代わる代わる見て何度も何度もうなずきます。全く衰えのない透明で輝いた眼差しでした。それが何かを認識する最後でした。

昏睡となり一日半、全てを吐き出して置いていくように、みるみる体は小さくなり、二十七日十四時四十五分、静かに入る息を終えました。孫娘の卒業公演の舞台が始まる時でした。

身内で厳かに送る旨、叶うなら田島伝師様にご一読賜りたいこと、堀僧正に一言頂戴したいこと。それをこの社会状況ながら、何とか叶えつつ、また、多くのご縁者に最期の面を見てお別れしてもらうことも大事と考え、暦に従い十二月二日に葬儀と告別を定め、周りの強い勧めもあって自ら遺弟装束にて導き、約束の寿量品百巻と報恩読誦行をもってお送り致しました。小春日和というのでしょうか、寒風と土砂降りの夜から一変、暖かな日で御座いました。

嘆徳にも述べましたが、最期の最後まで日蓮法華祈祷加持の行者、摩訶止観の人でした。十乗観法最期の煩悩「離法愛」「自法愛染」に対して自らを厳しく律し、「知者に我が義破られずば用いじとなり」との祖訓を帯し、宗教と社会の安穏の一致、先の大戦の戦争責任と高度成長期の経済戦争の責任を、宗教者が謙虚になって諸宗教対話による人類最高の叡智を見出し成し遂げることを最後まで望んでおりました。これを師よりの遺命として受け取り、潮叡はじめ家族一同、来る新しい社会に役割を果たす宗教活動に尽くして参ります。生前中の父への御恩に感謝し、その御恩に今後は家族が代わってお応え申すべく、社会の役割を果たして参ります。まずは弔問、お供え、お声がけの御礼申し上げ、師父の最期をお伝え申し上げます。

初月忌の砌 大垣 三塚 宝光寺十四代潮興日敬 法子 十五代 潮叡 拝